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みんなのエッセイ

ランの花 鳥越九郎

だれでも「ネパール」ということばを聴くとエキゾチックな、しかもおだやかな王国というイメージを思い起こすのではないだろうか。寒さも和らいだ3月下旬。私は貧困なネパールの教育の現場を援助したいというメンバーと共にネパールへ飛んだ。
もうひとつ、ヒマラヤの山々をトレッキングするという目的も持っていた。
 
 ところが、渡航の直前、ネパール国内でゲリラのような集団による橋の爆破や群衆のデモが繰り返されているという報道が入った。案の定、飛行場からの往来が制限され、トレッキングも満足にできなかった。
 仕方がない、待つしかないなと思っている時、同行の先輩がカトマンズの郊外にすごい人がいるから会いに行こうと言う。どういう人か判らないまま連れて行かれた。
 
 ひとつの山を買い取り、ランの栽培農場を経営しているという。ランは水がなくてもすさまじい生命力でそれこそ美しい花を咲かせる。香りも超一流である。ランの葉や茎は決して豪華ではない。むしろ、貧弱で見映えはしない。パサパサの土や枯葉の中でものすごい生命力で生き伸びていく。そして花だけは豪華でしかも長持ちする。
 
 今回の旅行は、ネパールという「ラン」を見て来たような気がする。
このラン農場のオーナーの名は、ビジャイ バジアジャラ氏という。彼の運転で連れて行かれたところが、「サンティ・バン」という大仏座像のあるところ。日本語にすると「平和の森」という意味だそうである。大仏を作ったのも彼である。彼はこの大仏を世界中に108体作りたいという。しかも、仏像を作ることが目的ではないという。
 
 その日は土曜日であった。大仏の周囲に裸足の子供たちがたくさん遊んでいる。少し離れた小屋のような決して立派とはいえないところで尼僧が30~40名の子供たちを集めて何かを話している。ビジ ャイ氏は言った。 その日は土曜日であった。大仏の周囲に裸足の子供たちがたくさん遊んでいる。少し離れた小屋のような決して立派とはいえない
ところで尼僧が30~40名の子供たちを集めて何かを話している。ビジ ャイ氏は言った。日本語がうまい。「大仏を作るのが目的じゃないんです。子供たちに食べ物をあげるのが目的です。でも食べ物をあげるために呼ぶのでなく、道徳や親孝行を教えているんです。ドロボーをしてはいけないとか、うそをつくな、そして親孝行は親のためじゃなく自分のためにするのだと。これからちょうど昼食を出します。もしよろしかったら手伝ってくれませんか」という。銀紙の皿にオートミールのようなパサパサな麦にカレーのようなドロドロした汁を少しかけたもの。延々と並んだ子供たちに配る。300名も来ると言う。皿によそう人たちと私たちは分担して、ひとりひとりによそった皿を渡した。
 私は小学校2年頃、両親が離婚。母親はまだ幼い子供3名と祖母を連れて鹿沼から東京六本木に戻った。土地こそあったが何ひとつ残っていない。理髪店の古い店舗を建てかえて5人の生活が始まった。母親の力で5人の生活を維持することはどう考えても不可能。生命保険の外交員を始めた母が食い詰めるのは時間の問題だった。
 
 小学校の2年。母親は夜8時すぎしか帰ってこない。帰って来てから食事の用意。いつも9時、10時が夕食だった。育ち盛りの子供たち3名は待てる訳がない。食パンを買って来て一斤食べたこともある。腹が減ってたまらず毎日砂糖を2、3杯口に入れ、水道の水で流し込む。それが原因で胃をこわしたことがある。そんな毎日の繰り返しでいたら、おそらくすさんだ生活を送ることになっただろう。
 
 ところが、住んでいる所は六本木。古い寺がいたるところにある。その当時、仏教青年会なるものがあったそうだが、持ち回りで毎週のようにそれぞれのお寺で子供会があった。子供会といってもお坊さんが仏教の説話や昔ばなしをおもしろおかしく、ドラマチックに話をしてくれたのである。私はひもじいお腹をかかえて10円を握って寺に行く。すると、袋に入ったおかしをくれた。これを食べたいがために、毎週あっちの寺こっちの寺へ行った。お坊さんの話はどうでも良かったのである。しかし、おかしを食べながら聴く昔話や仏教説話にいつのまにか引きずり込まれていた。手に汗を握りながら「笠地蔵」や鬼子母が人の児をとって喰う話を聴いて、やさしさとかおもいやりを教えてもらったような気がする。

 私は、ネパールの子供たちにみすぼらしいオートミールの皿を渡しながら子供の頃を思い出していた。
 裸足で山を越え、谷を越えボロボロなシャツで2時間もかかりこの大仏の所にやって来るという。ひと皿ひと皿が昔の自分に渡されているように思い、涙があふれてきた。他人に見られたらはづかしいと思い、後ろを振り返ると棚田のはるか向こうに一望できる高原と部落。

 はっと我に帰る一瞬であった。続々と子供たちは集まる。銀紙の皿によそって渡しても渡しても終わらない。うすら寒い屋外の一角である。そこへ一塵の突風が。ネパールは乾期。砂ボコリと同時に前が見えない程の泥。子供たちは皿を抱え必死に飛ばされないように押さえている。中には4、5歳の子供もいる。風にあおられて皿がひるがえる。オートミールは地べたへ。慌てて子供は汚れた麦をひろって食べようとする。中には半分程食べてから慌ててしまう子がいる。どうしたのかと見ていると背中で眠っている弟のために残しているようだ。私はもう耐えられなかった。

 これが現実なのである。恵まれている日本はむしろ例外なのだ。50年前の自分を思い出しひもじさのすさまじさを実感した。
 
 二人の兄姉と私の3人の子供は、毎日母の帰りを待っていた。9時すぎることもザラであった。夜8時すぎ野菜や食材を抱えて帰って来た母は、それからナベや釜で料理を作るのである。夕飯ではなくもう夜食である。兄も姉も人のことは無頓着。勉強ばかりやっていた。母親の手伝いなど一切しなかった。ときどき母はヒステリーを起こした。「少し位は手伝いなさいよ。食べるのを待っているだけなんだから。こんなに疲れているのに。」泣きながら地ダンダを踏む。母のダダッ子のような姿を私は覚えている。私とおばあちゃまは、いつのまにか夕ごはんを作るようになった。70歳をとうに越した祖母は気品のある大家のお嬢様だったそうだ。使用人やばあやを多く使い家事などしなかったはづだ。その祖母が私に戦前の料理の本を渡してくれた。小学生の私には読めない漢字が多く、しかも材料何匁と書いてある。メートル法で教育された私にはサッパリ判らない。
 
 祖母は部屋の隅を利用したすり鉢でのゴマのすり方なども教えてくれたりした。「おまえが女ならなあ。」と嘆いた祖母を思い出す。極貧の中で安い野菜の買い方やいくらかの得意料理を覚えた(殆ど日本の古い料理)。ダシ汁の採り方も得意だった。

 祖母は貧しさの中でも気高く、正義感を教えてくれた。和服も買えず、古い着物を毎日のようにほどいては洗い張りをし、また縫って着ていた。パリッとノリの効いた着物を着て背筋を伸ばし端座している姿は、それだけで祖母の尊厳を表していた。


 姉と兄は高校生と中学生。少し生意気な年頃。私はまだ小学生。ひもじい生活の中で果物など食べる余裕はない。米軍進駐軍の基地に近い六本木のこと。焼きたてのパン屋やケーキ屋、そして果物屋も繁盛していた。学校の帰り、おいしそうな果物、リンゴやナシ、ブドウなどピカピカにみがいて並べてある。食べたことがない。生ツバをのんで、あきらめて素通りする。すると、店の前のはじっこの方にリンゴやナシを山盛りにしたものを売っている。「一山30円。」おいしそうだ。なんでこんなに安いのだろう。不思議に思い、振り返り振り返り家にたどり着くと、その日に限って兄が帰っていた。しばらくすると姉も小走りで帰って来た。
 
 「みっちゃん、あれ見た!」“あれ”だけで判った。「見たよ!」兄が言った。「リンゴだろ!?」それで決まった。姉が20円、兄が10円。私は小遣いを持っていないので買って来いという。兄や姉は絶対はづかしいことをしたくない。その役目が私なのだ。泣きたいほどはづかしい。当たり前の果物を買えない人のために半分くさった果物をきれいな所だけを前に見せて、さもさもフレッシュなリンゴに見せる。私もそれは判っている。恥ずかしくて恥ずかしくて。いつも買いに行くのは私。駆け足で果物屋へ行った。店の名前は「山室果実店」今でも覚えている。

 「いらっしゃい!」と店のオヤジ。ニヤッと笑った。「コレ!チョウダイ」それを言うのが精一杯。オヤジは心得たもの。新聞紙をのりで貼った袋に半ば腐った果物を入れる。私は、30円を放り投げるや袋を持って一目散。一秒でも速くそこから離れたい。なのに、店のオヤジは「ありがとね、またおいで!」だと・・・。はづかしくてまた足が速くなる。はあはあいいながら家へ帰ると待っていた姉がそれを洗って、腐っているところを包丁でそいでくれる。半分も残らない。間違って腐っているところを食べてしまったら、にがいしお腹をこわす。しかし、腐りかかったリンゴやミカンのうまさは食べた人でなければ判らないだろう。3人で誰もいないところでむしゃぶりついたものである。祖母は知っていたかどうかは判らない。しかし、隣の部屋で端然と座ってひとりラジオを聴いていた。
 涙でぼやけるネパールの山々と棚田を眼下にして私は50年も前の六本木のことを思い出していた。

ネパールの子供たちよ、どんな環境でもランのようにパサパサの土でも根をはびこり、成長して香り高く美しい花を咲かせて欲しい。